怪奇骨董たおやめぶりっこ

ますらおぶりに憧れるブログ。涙がちょちょぎれちゃう。だって怪奇骨董たおやめぶりっこだもの。

『創作の極意と掟』筒井康隆

筒井康隆の本がKindleで手ていたのでざざっと読んだ。

  • 本編中で紹介・引用されている作品を派生して読んでみたいなと思うのが多々。
  • 「語尾」の章ともカラミますが、ですます調で書かれた文はたいてい面白い。

以下。ハイライトしたところばーっと引用して感想に代えさせていただきます。

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岩崎夏海の長いタイトルの作品も今や「もしドラ」の短縮形で語られることが多い。もしあなたの小説が短縮形で呼ばれるようになったら、それは名作の仲間入りをしたことになるので自慢してよい。憚りながら小生の作品では「時かけ」(「時をかける少女」)があります。

主人公または作家が対決しなければならない最大のものが死であり、最大の迫力を生むのが死である。このテーマで書かれた小説は数多いが、手近なところでは星新一の「殉教」がある。

会話が凄いのは夏目漱石「明暗」であろうか。一見それは日常用語の会話であるようだが、裏に壮絶な対立を秘めている。

語尾を使うことにはそもそもどんな意味があるのか判断ができなくなってしまうというものである。これはどんな作家でも大いに悩んだ方がいい。悩んだ末に悟りの境地があります。

川端康成「片腕」では、「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」と美しい娘に言われ、右腕を借りた男がそれを雨外套の中に隠して家に戻る途中、近くの店から聞えてくる天気予報に耳をすます遅延部分がある。

シリーズの一巻、本一冊まるごと、ほとんど遅延という珍しい例がある。谷川流涼宮ハルヒの消失」である。涼宮ハルヒ・シリーズはライトノベルとされているが、SF的首尾結構は整っているし、センス・オブ・ワンダーにもSF的合理主義精神にも欠けるところはない。

小生はこの作品に限らずシリーズ全体からライトノベルに対する姿勢が変わり、ついに自分でも「ビアンカ・オーバースタディ」なる作品を書いてしまったほどだ。

一冊の書物全体が異化されている書物が存在する。そんな本あるのかと思われるだろうが、実はガルシアマルケス「族長の秋」がそれだ。

星新一の「声の網」は四十年も前に書かれた長篇だが、電話の未来というよりはむしろコンピューター・ネットワークを予言していることに驚かされる。

しかし、いかなる小説であっても絶対に使ってはならぬ形容がひとつ。それは「筆舌に尽しがたい」という形容だ。

文学的な凝った形容を工夫するよりは、きちんと正確に描写する方が大切であり、自分に相応しいと思っている。

レーモン・クノー「文体練習」
(略)
おそらくはクノーに触発されてだろうが、高橋源一郎「国民のコトバ」は日本語で書かれた面白いことばを蒐集

奇妙な人物ばかりが登場する小説を書こうとする場合、是非読んでおくべき作品は、大江健三郎同時代ゲーム」であろう。特に登場人物のリストがなくても、前景化しようと読者がさほど苦労することもなくすべての奇怪な人物が次つぎと頭に入ってくる技術はやはりたいしたものであります。

どんなアホなものかということは、あなたがパチンコをしている時に思い浮かべることを思い出してみればいい。哲学的な思考や数学理論を思いめぐらしながら打っている人はあまりいない筈だ。そのアホな考えたるやあまりにもアホなことなので、時おり身もだえながら打っている人もいるくらいだ。何百人もの人がパチンコをしながら考えているそのアホのエネルギーを全部集めたとしたらそれはもういかにアホか、想像もつかないものがある。

最新作品集の最後の一篇「mundus」などのように、セックスをシュールリアリズム文学にまで高めた傑作は他にちょっと類を見ない。

「沈魚落雁羞花閉月」という美人の形容

だが今回、リピート・ノベルとでも名づけ得る長篇「ダンシング・ヴァニティ」(以下「DV」と省略)を書いた作家として、作品内の反復、繰り返し、時にはコピー&ペーストと受け取られてもしかたがないようなえんえんたる前文のプレイバックを、どういうつもりで行ったかを書き記しておきたい。実験的意図のもとに書かれた作品には、作家自身の解説も許されると思うからである。

「反復」が、「読みの神髄」とも言える「テクストがいかに絶えず読者にその反復による解釈を迫るものであるか」

時間の反復、特に主観的時間の反復というのはたいへん非現実的な設定だが、SFやファンタジイでこれをやった場合は非現実を合理主義精神で解決して読者をカタルシスに至らせようとするのに対し、このような非現実、または非現実的事態を小説の文章によって芸術的な超現実にまで至らせるのが純文学ではないかと筆者は考えている。

わが出版担当編集者の鈴木力氏は「この作品を読むと、話の流れが一回限りで終る小説がつまらなく思える」とまで言ってくれたが、これこそ物語の、文学的晦渋さのない重層化を志す筆者にとっては、わが意を得たといえる賛辞であった。

もしかすると小説は、反復という技術を最初から放棄し、忘れ去っていたがゆえに、読者への大きな奉仕を捨ててしまっていたのではないだろうか。小説は自分のために書くのだと言う一方の主張によって読者の満足を得る努力をしなかったから、反復という読者の満足のための重要な技術を持つことができなかったのではないだろうか。

回想を現実で行われる回想の通りに小説内で何度も反復することには、自己正当化、怒りの増幅、復讐心の強化、幸福の充足感、現実や現在への不満など、作中人物の心の変化を、小説では通常ない方がよいとされている「説明」を、「説明抜き」で強調することになり、実験的であると同時に新たな文学性乃至技法の発見にも繫がる

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生」はまことに刺激的な本で、この本に触発されて筆者は「ビアンカ・オーバースタディ」なるライトノベルを書いた。

あいにくすでに死は目前だ。ひたすら過去の自分を悔やむことしかできず、誰もがそうであるように「最極限の未了」つまり存在として完了しないまま、死にからめ取られてしまうのである。

基地外の人が自宅にやってくる。

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