怪奇骨董たおやめぶりっこ

ますらおぶりに憧れるブログ。涙がちょちょぎれちゃう。だって怪奇骨董たおやめぶりっこだもの。

「私のブログは偏向してます」という私

圏外からのひとこと(2005-02-01)

「イデオロギー界隈のメタ認知」シリーズ*1に関連しそうな話題なのでメモ。

「私のブログは偏向してます」と私がヘッダに書いたとしたら、そのヘッダを書いている私は、どのような価値観、判断基準に基づいて「ここの本文は偏向している」と言うのか?そのヘッダを書いている人は、偏向してないのか?中立なのか?

<私>が自ら「私は偏向している」と宣言しているのだから、この人はおのれの情動をメタ認知しているんだろうなあ。でも、それがどんな価値観・判断基準なのか、オイラが外部からもういっちょ認知してみよう。また、<私>がおのれを認知しているのか情動のままエントリーを書いているのか分からない場合は、まず、そこから探ってみよう。

ああこの人は己をマルキストと自覚してマルクス主義にのっとった時事評論をしているなあ、このスレの住人はとことん認知の過程を踏まず情動的に叫んでいるなあ、とか考えながらウォッチすると楽しそうなのだ。べつに政治的な立場に限らなくて一般的に。

私は規格原理主義者です。時系列にコンテンツを提供するのにRSSを配信しないWeb日記系のスクリプトを見ると憤りを感じます。でも、あらゆるWebコンテンツをXHTML validにしようとする働きかけは初心者ユーザをぶちのめしてしまうので強行だなあと思います。

てな具合で。

自己言及する記事では、書く私→書かれる私、という関係があります。読者は、「書かれる私」に関しての情報を受け取るのと同時に、「私がこう見るessaという人について、この書き手はこういう風な見方をするのか」という形で「書く私」についての情報を受け取ることもできます。

おのれの認知と他人の認知との折り合い。認知と認知のぶつかりあい。なんか「認知」って言葉には甘い響きがあってついつい常用してしまいそうだ。

ということで、メディア論については、「自己言及」が非常に重要なキーワードになると思いました。

メタ認知」とか言わず、「自己言及」にすればよかった。

*1:[id:fractured:20050131:1107148098]