「Carnegie Hall Concert」「Death and the Flower」「Koln Concert」Keith Jarrett
今日聴いた音楽。新入荷。キース・ジャレット=ケルン・コンサート/パリ・コンサートの人、という強い先入観でもって今回の 2 枚に触れました。スタンダーズとかヨーロピアン・カルテットとかほとんど聴いてません。そんな人の感想です。ご了承ください。
「Carnegie Hall Concert」
'2006 年製。副題、「N.Y.に奇跡が舞い降りた夜」。第一印象「★★★★★」。
2005-09-26に、カーネギーホールでのソロ・ライブ録音。即興パート 1 〜 10 まで+アンコール 5「曲」。
キース・ジャレットのソロによる「〜コンサート」は、ピアノ一台でがちんこ即興をやりつくすというもの。
ち、ちんこ即興じゃないからねっ!
さて、諸君は、Jazz でピアノソロで即興(インプロヴィゼーション)ってゆうと、同じキースはキースでも、キース・ティペットのソロみたいなおんどろおどろしいインプロを思い浮かべるであろう。思い浮かばない諸君のためになんか音源を紹介しようと思ったが、見つからなかった。
おんどろおどろしい雰囲気をつかんでもらうために、デレク・ベイリー置いておきますね。
キース・ジャレットは違います、即興は即興でも、「即興で作曲&演奏する」というのに近い。
着席してから弾き始めるまでの、音楽が光臨してくる間にしびれて下さい。
この「カーネギー・ホールコンサート」では、10 曲からなる組曲をその場で作曲している。現代音楽的なテンションの高い演奏をベースに、幽玄な曲や甘い曲やポップな曲を挟みこんで見事に構成された組曲。1 曲 1 曲の冴えがすばらしいだけではなく、それが連なった組曲としても見事にやってのける、それを即興で。「N.Y.に奇跡が舞い降りた夜」は伊達じゃない。円熟の極み。
聞く前、「ケルン・コンサート」1 曲目みたいなド甘なバラードで派手に締めくくる様子を妄想していた。で、実際は・・・って、即興コンサートの記録に対して中身をどうのこうの言うのは「ネタバレ」になっちゃうからやめたほうがよさそうだ。即興の行き着く様は、一人の客として体験したほうがいい。CD もトラック分けて時間表記しないほうがいい。トラックリストやプレイヤーの表示を見ないほうがいい。なるべく純粋に音楽を聴いたほうがいい。
アンコールでは既存の曲などをリラックスして甘く美しく聴かせてくれます。
「Death and the Flower」
- Keith Jarret(p,ss,fl,perc)
- Dewey Redman(ts,perc)
- Charlie Haden(b)
- Paul Motian(ds)
- Guilherme Franco(perc)
死のスパイスのなんと甘美なこと。
22 分超の表題曲が絶品だ。ベース、フルート、パーカッション、途中から滑り込んでくるピアノによる呪術的でフリーなパートで幕を開ける様からしてたまらない。次なる展開を引き起こそうとする強い推進力に引き込まれる。んで、満を持してサックスがテーマを導入する一瞬で音楽が和声的に変貌する。
この相転移!
ソフト・マシーンのとある曲や、マイク・ウェストブルックのとある曲などで感じることができる、脳にさーっとなんちゃら物質が広がる瞬間である。なんかの激痛に苛まれて飲んだ痛み止めが効いた瞬間にさーっと引いてゆく感覚、に近い。
その後、細やかな展開やソロ回しやテーマの再現などを経て、短調から長調へとクロスフェードするかのように風景が晴れ渡る。この展開もしびれる。夜が開け、雲が割れ、いきなり銀のラッパを吹く天使の姿が見え隠れし、そしてあっさり通り過ぎてゆく。
2 曲目はピアノ&ベースによる落ち着いたデュオによるインプロ。中盤、意外にもスティーヴ・ライヒのミニマル風な演奏するところが壷。そいつがさっと融解して次の明確な展開が立ち上がるまでの間どろどろしている様が、ああ即興しているなあと微笑ましい(なんてゆっちゃいかんのか)。
3 曲目も佳曲。陽気なパーカッション VS 憂鬱なその他全員 みたいな開始から、徐々にノリがパーカッション側にひきつけられつつもシリアスさは維持するぞみたいな駆け引き(がなされていたかなんて知らんのだが)が興味深い。
キース本人による、詩「生と死の幻想」訳を眺めながら聴くのがよい。
「私達は生と死の間を生きている」
http://jazzcd.jp/review/vitality.htm
「私達はもっと花のように努めるべきである。彼らにとっては毎日が生の体験であり、死の体験でもあるから。」