怪奇骨董たおやめぶりっこ

ますらおぶりに憧れるブログ。涙がちょちょぎれちゃう。だって怪奇骨董たおやめぶりっこだもの。

「死ぬ瞬間―死とその過程について」エリザベス キューブラー・ロス

社員に疲れて「人間みんないつかは死ぬのになあ」みたいな発言を発言する人に、「仕事中はそういうこと考えないほうがいいよ、手につかなくなるから」と答えたことがあった。それは咄嗟のうそだ。本当は、一人でいるときにこそそういうことは考えないほうがいい。

1969年刊行。ターミナルケア(末期医療)に関心を寄せる人々にとって「聖書」と呼ばれているらしい本。重病をかかえた患者への数多くのインタビューを通じて、人間が「致命疾患の自覚」をしてから、死を受容し死に至るまでの過程を分析する。また、それを通じて、医者が、医療スタッフが、家族や友人が、患者とどのように向かい合ってゆけばいいのか、多大なヒントを与えてくれる。これらが、生理学的/精神分析学的なお話ではなく、患者との対話を通じて得られるとても人間的な経験則というのが重要だ。

かなり夢中で読んだ。本書を手に取ったきっかけは、このエントリー。

極東ブログ: キューブラー・ロス博士の死と死後の生

うまく言えないのだが、私などいまだに死というものに発狂しそうなるほどの恐怖を感じるのだが

このくだりに激しく同意した。

何年前からか覚えていないが気がついた頃には、寝床の床や風呂の浴槽で、ふと「自分が死ぬ1秒前の1秒後」を具体的に想像してしまう癖ができた。そして、まいかいまいかい想像を絶する「自分が死んだ1秒後」に戦慄するのだ。

そして、人が死んだという話が耳に入るたびに、その人はどのような「死ぬ1秒前」を感じたのだろうかとまたまた想像をめぐらす。大往生したという政治家、若くして難病で死んだタレント、列車事故での即死、燃え盛る自動車に閉じ込められた子供、絞首刑に処されるかつての国家元首あるいは公開処刑で銃殺される政治犯、テロリストに拘束され殺されたバックパッカーあるいは自爆テロに果てた殉教者、自殺。

また、上記エントリーから派生して、アルファでブロガーな人たちがそれぞれの見解を述べているのも興味深い。

自殺・殉教・信仰

本書は、吉田戦車の漫画みたいな命のメーターが「生」→「死」へ至る過程がゆるやかな病死を対象にしている。先日、自殺と思われる列車人身事故の影響をまともに食らってあたふたしているときに想像した。命のメーターが、ぜんぜん「死」に至っていない状態で生を否定し死を受容し自ら命を絶つその心理とはいかなるものかと。これまた想像を絶して戦慄した。

殉教者もまたしかりである。

病気になったのは神の意思なんだという気がしてきました。だって、突然だったんですもの。それまで一度も病気にかかったことなんてなかったのに。病気になったのは神の意思で、神にこの身をお預けするのだから、心配することはない、そう思いました。それからはずっとそう考えてきたし、だからこそ今まで生きてこられたんだと思います。

これは、不治の病に冒された17歳の少女の言である。おどろいた。インタビューを受けた患者は、程度の差はあれ、みな信仰を口にする。さまざまな過程を経て、死を受容するに至るなかで、信仰がとても大きな役割を担っている。宗教が神話が生まれた理由の本質を垣間見た。人間が、巨大な脳を獲得してしまったがゆえに自覚することになった自らの死。宗教は、それを克服するための発明品という側面があることを(ほかにもある)。

というわけで、本書で述べられている事柄はキリスト教信仰があつく病院には牧師がいるのがあたりまえな西欧文明特有の部分もあるろう。キューブラー・ロスが実践した患者へのインタビューを、日本で実施したらどのような結果が得られるのか、これは想像しても戦慄しないぞ。しないぞ。しないぞ。

・・・ほかにもいろいろがさまざまに思うことがあるのだけど、とりあえずとりとめもないのでいったん〆。

ポイント

  1. 自分が死ぬ1秒前と1秒後を想像してみよう。
  2. 自殺者や殉教者が死を決断する前後を想像してみよう。
  3. 特別な普遍宗教に強い信仰心を持たない日本人が尊厳をもって死を受け入れるために寄与しているものがなにかあるのか想像してみよう。

読後感:★★★★★

無理やり音楽ネタにもってくとすると・・・関連:たおやめぶりっこ - Christian Vander関連2枚 いってる言葉は英語やコバイア語でぜんぜんわからないんだけど、なぜかとても生と死について考えているのと近い心理状態にもってかれるのがこの2枚のアルバム。